日本史上最大の火災、明暦の大火。謎に包まれたその原因に迫る!

日本史上最大の火災であり、世界三大火災の一つにも数えられている明暦の大火(1657)。江戸市中を焼き尽くし、10万人以上が犠牲になったといわれています。しかし現在に至るまで謎なのは、その原因。振袖火事説・幕府の陰謀説まで、明暦の大火の原因を探ります。

日本の歴史上で最大規模と呼ばれる明暦の大火とは?

明暦の大火(めいれきのたいか)は1657年(明暦3年)に江戸で発生した大火災。 

戦災や震災などを除けば、日本史上最大の火災といわれています。 


またロンドン大火(1666)・ローマ大火(64)と合わせて、世界三大火災と呼ばれています。 


1657年1月18日の午後2時ごろ、 本郷丸山の徳栄山惣持院本妙寺から出火 


最終的には江戸の町の6割を焦土と化してしまったのです。 


建物の被害としては、江戸城天守閣をはじめとして大名屋敷160軒・旗本屋敷810軒・800余町・神社仏閣300余・橋60余など。 


死者の数もおびただしく、霊巌寺(日本橋)では逃げ込んだ約1万人が焼死。 


小伝馬町の牢獄では奉行の判断で囚人を一時解放しました。 


しかしこれを脱走と勘違いした浅草橋で役人が門を閉ざす事態に。 


逃げ場を失った2万3000人が犠牲となるという、悲惨な光景がくり広げられたのです。 


結局犠牲者は10万人にも及んだと言われています。  

あちらこちらで上がる火の手の謎とその原因

明暦の大火では、当初の火災に加えてなぜか翌日に2件別の火災が発生しています。 

まず最初の出火の翌日午前中に、小石川伝通院から出火。 


この火は飯田橋から九段へ、そして江戸城に至ります。 


そして夜になり麹町から出火。 


この火は新橋方面の海岸までを焼き尽くします。 


いったいなぜ、無関係なあちこちの場所で火が上がったのでしょう? 


風上の火の気がない場所で原因不明の火が2ヶ所から発生するというのは、どう考えても不自然なのです。

さらに被害が拡大された原因の火災旋風とその威力とは?

被害が拡大した原因のひとつとして、この季節特有の強い北西風と前年11月からの80日に及ぶ日照りがありました。 

そして最大の原因は、火災旋風です。 


火災旋風とは広範囲の火災や山火事によって発生する旋風のこと。 


激しい炎が酸素を消費することで、火災のない場所から空気が流れ込みます。 


そして局地的に螺旋状の上昇気流が発生します。 


関東大震災の火災旋風は風速80m、その高さはなんと100~200mもあったといいます。 


巨大な火柱が荒れ狂う様子は、想像を絶する恐ろしさであったことでしょう。 


明暦の大火でも、同様の火災旋風が起こったことが予想されます。

江戸最大の火事であった明暦の大火には様々な説がある?4つを紹介!

あまりにも謎が多い明暦の大火。 

その原因として、さまざまな説があります。 

その1:振袖供養が原因で出火した「振袖火事」

明暦の大火の4年前である承応3年3月、麻布の質商・遠州屋彦右衛門の一人娘「梅野」が母に連れられて菩提寺の本妙寺へ参詣しました。 

梅野はそのとき、道中の上野山内で見た寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまったのです。 


美少年は、紫縮緬へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた振袖を着ていました。 


梅野は母親にねだって、少年が着ていたとおりの美しい振袖を作ってもらいました。 


枕にかつらをつけて振袖で包み、それを美少年に見立てて夫婦ごっこをする梅野。  


哀れに思った両親は手を尽くしてその美少年を探しますが、見つかりません。 


そして梅野は、恋わずらいにより翌年17歳で亡くなってしまったのです。 


両親は梅野の棺を振袖でおおって葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。 


本妙寺は葬儀が終わったあと、振袖を古着屋に売り払いました。 


ちなみにこれは本妙寺ががめついわけではありません。 


当時は故人の愛用した着物を棺にかけ、埋葬後にその衣類を売った金銭を墓掘り人足の浄めの酒代にするのが慣例だったのです。 


そしてなんとその振袖は、梅野が亡くなった1年後の同じ日に本妙寺に戻ってきました。 


振袖の次の持ち主である紙商人大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式で、再び棺にかけられていたのです。 


そして本妙寺は、それをまた古物商に売りました。 


するとさらに翌年の同じ日に、今度は麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式で本妙寺に戻ってきました。 


三度も同じことが重なり、さすがに住職も恐ろしくなってきました。 


そこで今度は振袖を売らず、明暦3年1月28日に供養のため本妙寺内で大施餓鬼を行いました。 


呪われた振袖を火に投じて焼くことにしたのです。 


 護摩の火に投げ込んだその瞬間、風が吹きつけ燃えながら舞い上がる振袖。 


その火はみるみるうちに本堂へと燃え広がったのです。 


これが明暦の大火の別名である振袖火事の原因と言われています…。


しかし黒木氏著の「明暦の大火」によると、この話は真実ではありません。 


おそらく明暦の大火の25年後、天和2年(1682)に起きた「八百屋お七の大火」の顛末が影響を及ぼしているということです。 


「八百屋お七より明暦の大火の方がはるかに大規模なのだから、さらに派手な原因があるにちがいない」 


このような心理が民衆に働いたのではないかと考察されています。

その2:幕府の頼みで汚名を引き受けた「本妙寺火元引受火事」

幕府が崩壊した後に、本妙寺は「原因はうちではない」ということを表明しています。 

本妙寺の隣にあった老中・阿部忠秋邸の失火を、幕府の要請により引き受けたというのです。 


その根拠には、以下のようなことがあります。 


  • 大火以後260年間にわたり阿部家から本妙寺へ供養料が奉納されている 
  • 本妙寺は一切の咎めを受けず、移転もさせられず厚遇を受け続けている 
  • 大火の10年後に触頭職に任命され、むしろ寺格を上げられている 
  • 一方で1772年目黒行人坂の大火では、火元の大円寺は50年再建が許されなかった  


確かにもし老中邸から出火したとあれば幕府の権威失墜は必須。 


それを避けるために、頼み込んで本妙寺の失火としたというのです。 

その3:当時もっとも信じられた「不逞浪人の放火」

では明暦の大火が発生した当時は、なにが原因とされたのでしょう。 

もっとも広く信じられていた原因は「不逞浪人による放火説」です。  


明暦の大火が起きたのは1657年ですが、その6年前の1651年7月に「由比正雪の乱」が起きています。 


この残党が幕藩体制への不満から放火したという話が、まことしやかに囁かれました。 

その4:江戸の町を一挙に整備するために火を放った幕府原因の「幕府放火」

さて、最後の説です。 

なんと「江戸幕府が計画的に火をつけた」のが原因であるというものです。 


江戸の都市改造計画が必要と考えた老中・松平信綱が故意に火を放ち、本妙寺にその火元を引き受けさせたというのです。 


確かに都市計画を実施すべき絶妙のタイミングで、この大火は発生しています。 


飽和状態の江戸の町を整備するため、信綱は前年に具体的な計画を始めていました。 


そして大火後にすかさず江戸再建計画が進められています。 


結局幕府は20名を放火犯と決めつけて処刑し、この話をむりやり終わらせています。 

大半を失った江戸の町を復興させるために働いた保科正之

保科正之は、三代将軍家光の異母弟にあたります。 

会津23万石の藩主であり、将軍家光の信頼を得て幕政に参画しました。 


正之は、非常に能力の高い人格者であったと伝えられています。 


1651年死の床に伏した家光は、正之を枕元に呼び「幼い家綱を頼む」と言い残しました。 


正之に徳川政権の安定を託したのです。 


その6年後の明暦の大火で、江戸城は天守閣・本丸・二の丸・三の丸が焼け落ちました。 


無事だったのは西の丸ただひとつ。 


正之は西の丸で右往左往する幕閣を尻目に、「将軍家綱は城外避難すべき」という意見をしりぞけて将軍を江戸城にとどまらせました。 


有事の際にトップがとるべき姿勢に導いたのです。 


正之は被災者救援にも力を尽くしました。


まずは一日千表の粥の炊き出しを実施。


そして家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給しました。 


幕閣からはもちろん「幕府の金がなくなる」との反発がありました。 


しかし正之はこう一喝したといいます。


「幕府の金はこういうときに使い民衆を安堵させるためのもの。いま使わずにいつ使う」


さらに並行して取り組んだのは、物価の安定です。


物資がない状態では物価が高騰しやすい。


とりわけ米は要注意と踏んだ正之は、米価の上限を決めるとともに米の確保を急ぎます。


さらに正之は参勤交代で江戸にいる諸大名を帰国させ、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通達しました。 


参勤交代で江戸にやってくる人数を減らすことにより、米の需要を減らして値上がりに歯止めをかけることが目的です。 


本来なら、江戸の一大事に馳せ参じることこそが幕府への忠義となりそうなところ。 


しかし正之はその柔軟な発想から「来ないことで」忠義を示させたのです。 


おそらくその根底には「民衆の生活安定を何よりも優先させる」という確固たる信念があったのでしょう。 

明暦の大火で消失してしまった江戸城のその後

その後、消失した江戸城はどうなったのでしょう。 

本丸・二の丸・三の丸は再建されました。 


しかし江戸城のシンボルともいうべき天守閣は、ついに再建されませんでした。 


これは正之が反対したからなのです。 


「現代において、天守閣は城の守りに必要なものではない。この大変なときに天守閣の再建に金を費やしている場合ではない」 


徳川幕府の権威の象徴である天守閣の存在を、正之は真っ向から否定したのです。 

復興のために防災に強い町づくりのため優先順位を明確化した

そして最大の課題は、江戸の町の復興です。 

正之は江戸の防災都市化計画を打ち出しました。 


主要道路の道幅を広げるとともに、各所に火除けのための空き地や広小路を作ります。 


今も地名として残る上野広小路は、このときに作られたものです。 


また江戸城内にあった徳川御三家の屋敷を城外に出し、江戸城周辺にあった大名・旗本屋敷をさらにその外側に、寺社を江戸の郊外に移転させました。 


これによって江戸の市街地は拡大し、その後の発展の基礎となったといえます。 


天守閣などよりも防災の整備を。 


未曾有の国難に直面し、正之は優先順位を明確にして復興に取り組んだのです。

火災保険の始まりは明暦の大火と並ぶ世界三大大火のロンドン大火が原因?

冒頭でご紹介した世界三大大火のひとつ、ロンドン大火。 

1666年9月1日にロンドン橋付近のパン屋のかまどから燃え広がった火は、4日間燃え続けました。


シティの壁の内側にあった家屋1万5000戸のうち1万3200戸(88%)が被害にあったのです。 


大火からの復興により、ロンドンは木造家屋から現在のような煉瓦と石造りの街並みに一変します。 


そしてこの火災を機に、世界初の火災保険が誕生したといわれています。 


火災保険を考案・開始したのは、建築業者兼医師のドクター・ニコラス・バーボン。 


バーボンは火災による損害のみならず、家屋が全壊・破損・損傷した場合も支払いの対象としました。 


また損害への保障は金銭ではなく、建築事業者による再建・復旧という現物でした。 


加入者は配布される「ファイアーマーク」というプレートを門扉などに掲示します。 


このマークが貼ってある家は放火にあいにくかったといいます。 


たとえ放火しても、すぐ再建されてしまうからつまらないというわけです。 


この火災保険事業によって、バーボンは莫大な利益を得たとのことです。

火災保険があるこの時代だからこそしっかりと加入を検討しよう

火災は本当に恐ろしいものです。 

ほんの少しの種火が、あっという間に町ひとつを焼き付くしてしまうのですから。 


もし自分の失火が原因で我が家が燃えてしまったら? 


さらに周囲の家屋をも延焼させてしまったら? 


あなたはその生命や財産を自力で保障することができるでしょうか。 


「起こらないのが当たり前」である火事。 


だからこそ、起こってしまったときはとんでもないことになるのです。 


火災保険がある現代において、その加入はもはや「そこで生活する者の義務」といっても過言ではありません。

まとめ

闇に包まれている明暦の大火の真相。 

今となっては、本当の原因を知ることはほぼ不可能です。 


しかし現代においても、この歴史的大火災から学ぶことはたくさんあるはずです。 


日常での心構え、防火の必要性、もしものときの備え… 


有事の際の被害を最小限にとどめることこそが、残された歴史の存在意義なのです。 

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